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永町洋子さんに聴く

豊島長生くんの妹である永町洋子さんにお話を伺いました。伺った内容の一部をご紹介します。
(2025年1月24日(金)聞き取り)

ヒロシマ・ナガサキに触れる

半袖について

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「母が連れて帰ってきた時は、たしかに着てましたけど。それを、細かく見てませんから、これ(半袖)を(もともと)着てたのか、母が持っていったもの(半袖)を着替えさせたのか、よくわかりません。ただ、帰りがかりに本人を車に乗せて帰るとき、時間が早かったから、救護所で手当てをしてもらえたんです。帰りの道にね、道中に救護所があって、そこでお薬をつけたり消毒したり。だから、その時に多分母が上はシャツは着替えを持っていって着替えさせたと思います。」

ズボンについて

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「これは元々は中学生の制服ではなくて、(長生くんが家に帰ってきたときに)上に着てたのは半袖のシャツですけども、下のこのズボンは大きいでしょ。15歳の子どもの履くズボンじゃないでしょ。これは多分、父の古いズボンを母がうまく改造して着せてたんじゃないでしょうか。」

服の状態について

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「泥とかいろんなのがついてるから、洗って、それから、こういう風に。で、接ぎ当てたんじゃないでしょうか。何も泥がついてないでしょ。」

ー[聞き手]うん、そうですね。これは一旦脱がせて、洗った?

「多分そうです。これはね、これは母がやったことです。ミシンということは、母は保管しようと思ってたんですよね。ただ、それを私たちは何にも知らない。黙って自分で仕舞ってしまって。」

家族間で長生くんの話題は・・・

「全然(話をしなかった)。」

ー[聞き手]全然ない。

「とにかく兄の話については一言もしゃべらない。連れて帰ってきた、こうだったよって言って、出会ったという話以外は。兄の話しないというのは、兄が亡くなって。で、父が外地に行ってましたからね。子ども4人を、育てていかなきゃいけないのに。そんなこと言ってられないわけでしょ。もう生活に追われちゃうんです。だから、とにかくこの件については何にもしゃべってくれませんでした。」

父のこと

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ー[聞き手]手紙は、(お父さんの)手に渡ったんですよね。それで、お父さんが持って帰ってきたってことですか?

「帰った。終戦でね。父はね、軍服着てたんです。軍属っていうんですか。軍のお仕事をしてね。だから、もしかしたら。戦争が終わってすぐ。どこですか、日本人の兵隊はみんな、シベリアに送られるでしょ。それで、父は中国人の知り合いの人に助けられて、中国人に化けて、軍服も全部脱いで、中国人に助けられて、そのシベリア行きに、逃れて逃げてて逃げてまわってた、それで日本に帰ってくるのが遅くなった。」

ー[聞き手]何年頃に帰ってこられたか覚えてますか?

「ええとねそれがね、(昭和)22年。2年か3、2年ぐらいだろうと思うんです。」

ー[聞き手]じゃあ、その22年に帰国するときに、この手紙も一緒に。

​「大事に大事に持って、着のみ着のままで帰ってきました。」

洋子さんの被爆体験

2025年1月24日のインタビュー時のもの

「直接私(被爆を)してないです。小学校行ってたから。それで、小学校6年生は。あの頃は山口県のほうからも例のあの作業に行ってる人が多かった。あの道を大勢ぞろぞろ、ぞろぞろ被爆者が被爆してこんなになって帰っていく。それで、途中で歩けなくなって、それで近くの小学校へ避難する。でも、それのお手伝い、いわゆる救助活動ですか。それがとにかく近くの小学校でもやっとたどり着いて、みんな死んじゃうんです。それで、翌日、いっぱい死体を並べて油をつけて燃やしちゃうんで。そういうのを見ました。こんな被爆体験なんて、今後誰にもさせたくないですね。」

ー[聞き手]当時、お家にいたのですか?

「あの日はね。私はなんか頭痛がするとかなんとかでうちにいたんです。みんな学校行ってるのに、私はうちにいたんです。それで母が広島に爆弾が落ちたみたい、とにかくお兄ちゃんが心配だから行くって言って、それから支度してすぐに行っちゃいました。」

ー[聞き手]その間はお家に1人だったんですか。

「弟たちがいるから、弟たちの世話なんかして。それでね、車を引いて歩いていくんですからね。随分遠いんですよ。小さな配給車っていう車を引いて、そして(母が)行って連れて帰ってくるの夕方でしたもの。」

長生くんの最期

幼少期の洋子さんと長生くん。

洋子さんの長男・永町謙さん提供。

「最後に。痛いとかいうのは言わないで、水は言ってましたね。「水、水」ってね。でも当時、水は火傷にはいけないっていうことでしたね。だから、なだめすかして水は飲ませないようにして。そうしてたら、「お母さん起こして」って。寝てたの、起こして、母が抱いて起こしたら、そしたらいきなり「君が代」を歌いはじめた。」

ー[聞き手]その現場にいたのは、お母さんと洋子さん?

「子どもたち(きょうだい)全員と。」

ー[聞き手]みんないた。

「近所の奥さんたちも。とにかく母が兄を連れて帰ったっていうことで、みんな来てくださった。そしたら突然「君が代」を歌いだして。それもはっきりと歌って。歌い終わったら、「気持ちがスッキリしたよ」って言って。言って間もなく、もうすっと。それだけは残ってます。頭に。あれは忘れられませんね。」

ー[聞き手]日本ではその後何度も「君が代」を、こう、洋子さんが耳にすることあったと思うんですけど、思い出されたりしますか?

「します。だから、私は歌わない。黙って。それを歌うと、涙が出てきます。」

制服が保存・活用されることについて

ー[聞き手]今この服はいろんなところで展示されてるんですけど、いろんな人に見てもらえる服について、どう思いますか?

「母は喜んでるでしょうね。まさかここまでね。やるとは思わなかったでしょうね。でも、想いはあったと思います。よかった。こんな立派なね、(保存箱を)作っていただければ、これは長く伝えられますね。ありがたいですね」

この聴き取りの様子の一部が広島の放送局である中国放送(RCC)で放送されました。

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(中国放送RCCのサイトが開きます)

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